発達障害とは特性や性格だ、と言われても納得できないものだけれども、これが「知的障害を伴う自閉症スペクトラム症のお子さんがいて、障害者家族のために奔走している人」の言葉だとしたら。
人間になりたい、と願わない日はない。
しばらく「障害者」として活動し、大声で意見や生きる風景、苦悩や不平不満(一番多いかも)をSNSで言っていた。
その一方で、少し前から「発達障害」にまつわる言葉を非表示にしている。発達障害は地獄、人生終了という意見、取り巻く人の地獄、見ると心がどんどん病んでいった。まあ、非表示にしたところ別の地獄が待っているのだけれども、それでも前よりは平和にSNSを見ることができるようになった。
他の記事にも書いているかもしれないけれど、わたしが子どもの頃から戦ってきているのは、他人様の中にもあり、育ててくれた家族の中にもあり、自分の中にも少なからずある「障害者に対する差別意識」。
あなたは知的に問題がなくても、教室の席に座っていられませんよね、じゃあ隔離。籍も障害児学級に置いてください。(人員確保のためにも)補助の先生をつけます。自我が芽生える歳になってくると「障害児」と呼ばれることが最大の屈辱となった。(障害当事者全員を差別する意図はありません。あくまで自分に対して)
大声で言おうが言うまいが、診断がつこうがつくまいが、いまだに自分が障害者なんて、結局受け入れられていない。
先日あった飲み会でも、自己紹介で障害を開示しなかったのに「就労支援で働いているんですか」という、意図はわからないがわたしを健常者と見ていない言葉をかけられてしまった。体調不良をおして参加してマナーの悪い行動をとったのもよくなかったのかもしれない。その場では会話を成立させるために何もクレームを言わなかったが、わたしのコミュニケーションのレベルは働けない人のレベルなんですねと、ショックだった。
実際問題、本当に働けないレベルであるとドクターが判断したので「障害者手帳」を持っている。現に、わたしはコミュニケーションに問題があり、得意な人にお願いする・サポートを得るといったことを必要としているので、組織で働くという道を選んでいる。フリーランス活動をしていたときは驕りもあったけれど、スキル以前にやっぱりそこがまずダメなんだということに気づくと、迷いなくやめた。(上手くバイト先に潜り込めて本当によかったと思っている)
障害を隠しても、障害者呼ばわりしたり、馬鹿にした態度をとる人はいなくならないし、障害を開示しても見えないよ〜と無責任な言葉をかける人もいなくならない。またどれだけ努力を重ねても健常者のレベルには到底たどりつかないこともよく知っている。
相手からコミュニケーションが取れない、と判断されたら、無視し離れられる。(現にわたしの父がそういう態度をとっている)先ほど書いた時のように嫌な言葉を浴びせる人もいるが、自分のことや、苦労をわかって欲しいと思わない。わざわざ差別されに行きたくないし、できない言い訳にしたくもない。
だからもう、無理やり、障害であると言わなくてもいいんじゃないかと思った。
否定も肯定も、アイデンティティに置かない。プロフィールにも書かない。
ひた隠しにすると言うよりは「障害があることを大きい声で言わない」ぐらいがちょうどいいのだ。就職面接とか言わないとまずいシーン以外では、言わない。受け入れようが受け入れられまいが現に障害者なので、引き続き障害者支援や有識者とは繋がっておく。
これからも自分の中に巣食う差別意識と戦う生活が待っているけれど、それはもう、ある意味宿命でもあるので、その宿命から逃げると言うよりも忘れる方法を考えようかな。障害があってもわたしはわたし、という境地にはまだまだ至らないけれど、「発達障害とは特性や性格」であって個々が抱える普通の問題であって、それぞれの違いを受け入れて生きられる世の中になって欲しいなと思う。障害とかキチガイとか呼ばれない世の中に。誰かさんの発達障害に関する投稿で「問題のない人など、いない」という言葉に救われた。だから、こういうブログを書いてみている。