20230916_都会(まち)のばあちゃん

阪神タイガースの「アレ」が決まった日の夜にふと、「都会のばあちゃん」(実際はそういう呼び方をしていないけど、ここでは、実家で両親と同居している父方の祖母のことではないことを明確にしておく)のことを想いました。

まだ元気だった頃、ソファに座ってテレビを見ていて、阪神がテレビに映るやいなや「阪神キライやわあ〜」とdisりはじめる光景をなぜか鮮明に覚えています。その頃わたしは野球を観ていなかったのであっそうぐらいにしか思わなかったけれど、そのぐらいのG党だったのです。

ばあちゃん宅の、阪神をdisっていたリビングのイメージ

9月の快晴の日、有休を取って、生駒からすこし離れた施設にいる、ばあちゃんに会いに行きました。

病院と併設されている施設で、薄暗い病院から施設ゾーンに入ると、折り紙で作られたお花畑が、有名なキャラたちと一緒に壁一面に貼られていてて、保育所を思い出し、年を取ると子どもに戻っていくんだな…と再認識します。

ばあちゃんは顔も頭もすっかり真っ白だったけれど、母が頭と身体をやさしく撫でながら「あやちゃん来たよ〜」と言うと、わかっているのかわかっていないのか表情を少し変えました。

たった15分の面会。
母は「涼しくなったらお散歩ができると良いね」と話したり、スマホで撮った犬の写真を見せたりしつつ、だんだんグズグズと涙声になりながら「一人でさびしいね」「元気になろうね」と何回も何回も自身の母親に語りかけ、別れ際に「また来るからね、なにか言いたいことはない?」と訊くと、

「いつ来るの?」

と、ばあちゃんはそのとき持っている全身の力を振り絞って訊き返したのです。
そこに、残り僅かなはずの、生きる力が見えました。

わたしはというと、見えているはずがないのに手を大きくふってみたり、手をそっと握っていたり、念で思い出してくれないかなという行動を取っていました。目の前で泣くのはイヤでした。

とはいえ、ばあちゃんと別れ、もう会えるチャンスはないかもと、帰りの車でむせび泣きました。
その日は調子が良かったとのこと。聞けば少し前に母が妹と訪れたときは、もう逝くんじゃないかというぐらいの状態だったようで、妹はかなりへこんでいたと。
不安定な状態、ということは、

「いつどうなるか分からへんな」

と、父母わたし3人は話して生駒へ戻りました。

わたしがいつまでも自立できないとても不甲斐ない孫なので、こちらが年を取るごとに見る目が厳しくなっていき、晩年は会うのを避けてました。残念ながら、ひ孫の顔は見せられず、立派な孫にはなれませんでした。なにか返したりは…孫のわたしができることってあるんだろうかとふと今になってから考えても、もう遅いし。孫なんてだいたいがそんなものなのかな…。

80代入るぐらいまで難波の高島屋によく連れて行ってもらったり、2012年の個展のときはわざわざ枚方まで来てくれたしで、癇癪を起こしても妙な行動や言動をとっても決して怒ったりしなかった。ハイカラで、やさしい、天然屋さんのばあちゃん。言い方が他人行儀だけど、お世話になりっぱなしで。

自分の家が田舎だったので、わたしにとっては大好きな「都会のばあちゃん」なのです。生駒市内に住んでいたけれど。

生きているうちにもう一回会いたいな。ってわがままかな…。