20231021_自分を大きく見せる必要はないし、小さく見せる必要もない

いつぞやの夜アイス屋

バイト先に紹介して、お仕事をお願いしたクリエイターさんと一緒にご飯食べました。
いつの間にか、わたしの悩み相談みたいになってしまったんですが、その方にクリエイターとして見てもらえてることがうれしく思いました。

そのときに「自分を大きく見せることに必死だったな」ということに気づいたのです。

会社員になる前、会社ではやったこともないことをできますとハッタリをかましたり、個人的に自分でビジネスをしていたりフリーランスの方と付き合うようになって、口では「大したものでは…」と言っていますが肩を並べようとか追いつこうと必死だったのです。とくに、フリーランスで活動を始めたときは無理にできないことをやったり、toBのイベントに出たりしてたし。

いまは、会社(Webの仕事)も辞めたし、頑張って付き合っていた方々と疎遠になり(これは貧乏とFacebookを辞めたことが理由だと思いますが)かわりに障害や病気を抱えながらも、自分らしく生きようとするサバイバーと出会えたりして、楽になりました。

フリーランスの活動をお休みする、ということを書きましたが、もう「自分の働き方」として選ぶつもりはありません。バイト先で上司と面談したときに「もう複業はしないでバイト先1本で働きたい」「社員を目指して頑張りたい」と話しました。

発達障害のわたしが組織で働く、という働き方を選ぶのもそれはそれで大変な選択です。社員になれるかどうかはさっぱりわかりません。それでも少なくとも週5日バイトでは働き続けられるという3年間の手応えがあってのことです。(環境に恵まれているという要因も大きいです)

社員になれなかったときは、とか、次は、とかも考えるんですが、「障害者雇用のほうがいいのかな…」「だったら次は(年齢もあるし)清掃の仕事とかだろうな…」となってました。でもそう決めつける必要もないのです。専門の制作会社とかはさすがに無理でも、どっかでお役にたてそうなポジションがあれば、障害を(一応)開示してチャレンジすればいいのです。今のバイト先もそうして見つけました。40歳にもなれば求人は減りますが、それでいいのです。

障害者だから無理とか、〇〇だとか、小さく見せる必要もない。

わたしは心身が弱いことも、コミュニケーションがうまくいかないことも、生きるのが苦しくて病んでしまうことも、障害のせいにし過ぎなところがあります。そこに甘えることで、楽をしようとしているのかもしれません。

その一方で、障害者であることが受け入れられていない自分がいます。
たとえば、わたしが描いた絵を「障害当事者が描いた作品」として扱われることに違和感を覚えます。それは真実であって、何がおかしいと聞かれればうまく言えませんが。

なぜこんな違和感をおぼえるのかというと、わたしの生きるテーマは「障害に抗うこと」だったのです。

親からは自閉症を心配され、発達障害の概念がなく小学校からレッテルだけを貼られ、大人になって発達障害が判明しても「障害者と言わせないんだ」ということが生きるモチベーションでした。いまはそこが中途半端になっていて、心は受け入れられていないのに変に大きい声で「発達障害です」と言い続けることがかえって苦しくなってしまい、そろそろそういう生き方はやめようというか整理しようと思いました。

障害者であることはかわりないので、受け入れて、身の程を知って生きていきたい。

ので、「障害者であること」について「過去と現状に向き合うために、伴走してくれるカウンセラーさんを探しているところです。